小泉の昔のあれこれ
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● 新卒入社そして、半年で営業停止へ
内定を2社もらった私は、最終的にホールディングス採用された会社へ入社します。(入社前のお話しはコチラ)
同期は、他に4人。内定者は、10人くらいいたのですが、このグループの親会社が、経営破綻したことで内定辞退者が多く出たそうです。
当時の自分は、グループの親会社の状況等はあまり気にしていませんでした。
新しいことできればいいと思っていましたし、会社員を長くやろうとか、安定を求めていたわけではありませんでしたので。入社後、1週間程度は、研修漬け。その後は、グループ会社による研修期間でした。
で、最初に経験したのは、賃貸保証という業態の会社です。
どんな会社かというと、簡単に言うと、
「部屋を借りるときに、人の代わりに連帯保証人になる」会社です。
(ザックリいうと! 連帯保証人とは…契約者と同じ責任を負う人。契約者を保証する人)
世の中では、一般的に、部屋を借りる時には、家賃を払うわけですが、もしかしたら、払わなくなって
しまうかもしれません。そうなったときの保険として、もう1人、連帯保証人という人も一緒に契約して、
お部屋を初めて借りることができます。多くの場合は、親や、兄弟が連帯保証人になりますが、早くに親が亡くなってしまっていたり、
兄弟の仲が悪かったり、まだ未成年だったりすれば、連帯保証人となりうる候補がいない人だっているわけです。
そのときに、お金をもらって、連帯保証人に、会社がなるのです。
その代わりに保証料や、更新料といったお金をいただき、利益を得るわけです。そして、連帯保証人になるということは、同時に
「大家さんにとって、家賃の保険」でもありました。
連帯保証人代わりなので、もし、契約者が家賃滞納をした時に、代わりに支払いをするのです。(これを代位弁済といいます)
すると、大家さんにとっては、家賃が入金される!という仕組みです。もちろん、通常の契約者・連帯保証人でも、借りたお金を返す義務はありませんが、これは、ビジネスですので、
一度立て替えて支払って、後から契約者本人に、その滞納家賃を返済してもらう、という形をとります。不動産業というのは、結構奥深くて、いろんなオーナーさんがいます。
昔ながらのオーナーさんもいれば、投資目的の個人オーナー、投資目的の法人(企業)、ファンドなんかもあります。
これらの中で、家賃は、収入になりますが、それらの収入が入ってくる前提で、銀行からお金を借りることもあります。
ですから、家賃が入ってこない(滞納)してしまうと、オーナーさんが、銀行へお金を払うことになってしまいます。ですから、物件によっては、この保証会社加入必須、なんて物件もあったりします。
世の中は、学生の皆さんが思った以上に、お金、言い換えると「数字」がたくさん出てきます。話を戻し、最初にやった仕事は、やはり営業職。
新卒というのは、本当に何もできませんから、専門知識が必要な、テクニカルなものではなく、営業に配属されることが多いですね。
とはいえ、営業というのは顧客を拡大していき、会社の窓口となり、唯一、お金を稼ぐ役割です。大学時代に、講師職で話すことに慣れていて、電話応対にも慣れていましたが、顧客を開拓していったり、
営業目標を追いかけるというのは、思った以上に、精神的にシンドイなという感覚だったのを覚えています。で、この賃貸保証の会社、入社してから、何やらいろいろわかっていったのですが、
かつてのグループが金融系の会社だったこともあり、訴訟問題をグループとして抱えていたようです。その結果、半年後、国からの差押えを受け、営業停止。
新たに申し込みを受けても、運転資金がないため、債権管理のみとなり、営業職は、全員自主退職を余儀なくされることとなりました。
これが、入社からわずか半年後。9月末のことです。これが何を意味するのか?といえば、「給料もらえない!」ということです。
さて、その後は、どうなっていったのでしょうか?続きは、次回。 -
今回は、私がサラリーマン時代だったことについて、少しご紹介したいと思います。
おそらく、塾で仕事をしている自分しかご存じないかもしれませんが、前職は、普通のサラリーマンをやっていました。● 世界同時不況が始まった年に就職活動
大学を卒業したのが、2010年3月。新卒で入社した会社は、グループ採用をしている会社で、
不動産と金融業がおもなホールディングスの採用をされました。
当時はグループ会社に秋葉原にPCパーツを売る、小売り会社もありました。当時は、就職が難しくなり始めた年です。
2009年のリーマンショックという、世界同時不況の影響が国内で出始めていた年でした。
みなさんは、イマイチ理解できないかもしれませんが、サブプライムローンというものの影響で、世界中で景気が悪くなっていきました。
(どれくらい景気が悪くなった時代なのかは、お父さん・お母さんに質問してみよう!)
大手銀行や、大手電機メーカー、自動車会社などが、新卒採用を絞り始めた年です。
翌年以降は、東日本大震災の影響もあり、内定取り消しなどもニュースをにぎわすほど、大卒の就職率が悪くなりました。
私が通っていた明治大学は、就職に強いといわれていますが、当時は、友人も内定が1社もないという人も、わりといました。
就職浪人といって、わざと留年をして、翌年、もう1度就職活動をする人もいたり、大学院進学をする人も、増えました。そんな中、私も、就職活動なるものをして、自分がやりたいことを考えて、
将来にやりたいことができる、または、そのチャンスが得られる会社を軸にして、就職活動をしていました。
ですから、やたらめったらと採用試験は受けず、10社だけうけました。
その際に感じたことですが、企業側も、ミスマッチを防ぎたいので、しっかりとこちらを試している、見ているということ。
ですから、自分の意見や考え方が固まっていないうちに受けた会社は、すべてすぐに落ちていました。
途中から、いろいろと大人に相談をさせてもらったり、知り合いの企業の経営者の方、社会人の準備をするためのセミナーなどに参加し、
しっかりとのぞむことにしました。結果的には、当時としては運よく、2社から、「内定」をもらうことができました。
● 内定あと
1社は、マーケティング系の会社。初めての最終面接までいった会社でした。
3次面接の役員面接のときには、だいぶウケがよかったのですが、最終面接の社長面接のときには、
「聞いていた人物像と違う」と言われ、その場で、コミュニケーションのレクチャーを受けたのを、よく覚えています(笑)
こちらの会社では、内定をもらったあと、実際に営業に同行させてもらって、入社あとの仕事をイメージしてもらうという取り組みをしていました。私が、営業同行したのは、2社。
1社目が、日本電気。ご存知ですか?
そう、あのNECです。本社ビルまでいって、異様にオフィスも広かったのを覚えています。
あー、会社ってこんな感じなんだなと思いました。目の前には、ドラマでみるようなオフィスが広がっていましたから。もう1社が、フォルクスワーゲン。
こちらも、とてもキレイで高級感のあるオフィスでした。営業同行といっても、特になにもするわけではないのですが、まさに、「交渉」「提案」といったことをされていました。
この経験で、営業職というイメージがついたので、大変貴重な経験でした。
とても、いい会社さんだったのですが、結果的には、この会社は辞退をさせていただきました。その理由は、入社したもう1社が魅力的にみえたからです。
ホールディングス形式をとっている、グループ採用の会社っていうのが決め手でした。
将来的には、新しい仕事を自分で立ち上げたいと思っていたので、環境的に自分にマッチしていると思いました。
また、東証マザーズに上場している、上場企業としても、中堅企業といったところで、
グループ全体で、社員数が400~500人ほどおり、前述の会社よりも、規模や社員も多かったため、
より、自分のためになると思いました。さらには、当時は経営陣が新しくなってから初めて、本格的な新卒採用を行い始めた年でした。
これまでは、中途入社(転職)が多いため、企業文化が醸成されていない。
そのため、新しいことにチャレンジをしていきたい、だからその中核を、君たち新卒が担ってほしい。社長や役員、人事担当の言葉が決め手でした。
さまざまな事業を始めていく、そんな環境が自分にとって、うってつけだと見えたのです。
内定式の後にも、役員や社長とも食事をする機会や、翌年の採用のお手伝いをさせてもらったということも、
充実した大学4年を過ごせたことを覚えています。このように過ごせたのは、自分なりに、高校の時から、「自分で仕事を始める!」と軸があったからです。
大学時代に初めて何か、仕事について考えると、どうしても妥協的になってしまうと思います。現在中学生や高校生なのであれば、今からでも、自分が将来的にどんな仕事をしていたいか、考えながら過ごすと、
有意義な学生生活が送れるのではないでしょうか? -
今年度もGWが過ぎてがだいぶ落ち着いてきました。
今年は、このサイト内の記事を100増やそうと思っています。これほど小さな塾だと、1人であれこれとやらなければならず、頭の中がスッキリしないため。
「ものを書く」というアウトプットによって、思考が整理されるという部分もあります。あとは、普段授業の中では語れないことなど、文字に残しておき、いつでも、どんな方でも
当塾のような私塾を知ってもらえればと思っているのです。
講師をやっていると、私の過去について、生徒・保護者から色々質問されることが多いので、
お話できる過去について、徒然なるままに、書き綴ってみようと思います。◆塾講師をやり始めた理由
現在、私は授業をある程度何でもやっているわけですが、元々は文系の人間です。
かつて、某Eゼミナールという最大手で、大学1年の5月頃に塾講師の時間講師として応募をしました。
応募は、ネット上のアルバイトサイトで検索し、応募。
数ある中から、塾講師という仕事を選んだ理由は主に3つありました。1.時給が高い
2.プレゼン能力など、社会人になったときのスキルが身に付く
3.教えるってことが面白いと感じていた1つ目の「時給」。
まぁ、なんと安易といえば、安易であると思うのですが、時給は選んだ主な理由でした。
Eゼミナールを選んだのも、他の塾よりも、時給が高かったから(笑)
家庭は、自営の土建屋であったため、大学の学費など出せる余裕もありませんでした。
そのため、大学は奨学金を受けて、親からの学費援助は、ほぼなかったため、
学生時代にある程度稼ぐ必要がありました。
その時は「時給が高い」=「毎月稼げる!」と、安直な思考だったわけですが、今となって思えば、時給が高いのには、
それなりの自由があるということを考えていない、浅はかな発想でした(笑)2つ目の「能力開発」。
ご存じの通り、私自身、高校時代は勉強していないため、二浪もしたわけですが、大学に入学した時点で現役の子より、
2歳年上なわけです。他の子より、大学受験に2年かけてしまった、との想いが当初は強くありました。
その「二浪した」ということが軽いコンプレックスでした。
高校時代は、それなりの進学校だったため、1年浪人すれば、早稲田に受かる生徒は、結構ざらにいました。
それなのに、二年も浪人しても、早稲田にも受からない…といった気持ちがありました。
(入学してみると、意外に、もっと進学校で二浪している同期が結構いました)
そのため、単なるお金稼ぎ目的のアルバイトにしたくなかったという気持ちが強かったのを、よく覚えています。3つ目に、「教えることが面白かった」点。
私の小学生時代、他の子より、勉強に関して真面目だったり、そろばんを習っていたりしたこともあり、
結構勉強はできる部類でした。
小学生の頃の担任の先生が、ドリル等早く終わった生徒を、先生役にして、他の子に教えるというシステムをとっていました。
そのため、私が先生役になり、丸付けしたり、教えたり、頼られたりというのが面白かった感覚がずっと残っていました。
この感覚は、当時は優越感に近い感覚だったのだと思います。
「凄いって言われたい、教えて~って頼られたい→勉強する」という単純な思考回路が、小学校、中学校と私の原動力だったような気がします。それを、面白いと錯覚していたのかもしれません。当時の自分からすると、まさか、それを現在の仕事にするとは、当時全く考えてもみませんでした(笑)